こちらが行う先祖供養(先祖の浄霊)と、一般の宗教とはどのように違うかと疑問に思う人も多いようだが、一言で言えば、本物か偽者かということになる。もっと深く言えば、徳があり、こちらと深い縁があるのか、ないのかの差になる。
さて、本当の供養、つまり浄霊をすると、どのような効果と意味があるのかを知らなければ、供養しても意味が無くなってしまうし、お金が損失するだけである。しかし、一般的には「供養」という言葉には、仏壇やお寺、お墓のイメージが強すぎて、供養の本質である、肝心な魂の浄化というレベルには到達していない。供養というと、霊能者やお寺の僧侶を想像するのだろうが、彼らの最大の勘違いは、お経に霊を上昇させる力が宿っていると思っていることだ。まず、根本的には、そのような霊を導くための霊視能力が備わっていなければならない。阿弥陀様や観音様、お釈迦様との会話が、常に出来ているかどうかである。世間で言う霊能者は、プライドは高いが、これらの神々との交流を出来るほど霊格は高くない。それらの交流があって初めて、神々からの導きのために、地上近く降りてきて、霊たちを導いてもらうのである。決して、自分の力で霊たちを上昇させるのではない。釈迦は、お経にその霊力を封じ込めたりはしなかった。だから、霊視くらいで偉そうにお金をもらうこと自体、神罰が来るように設定されている。この戒めは、神々からの忠告でもある。この道を損なうと、畳の上では死ねなくなるし、頭をやられてしまう。お金を儲けようとするものたちは、上のものは狐や狸の使いを遣す。霊能者のほぼ全てはこれに当たる。とても、神々の使いなどと言うものではないのである。
対してこちらの場合は、このような行いとは全く違って、霊そのものをアトランティス神のパワーで下から銀色の光で持ち上げ、一気に霊界の前で篩い分けをして、地上からの霊たちを一掃する。これは、地球の浄化という役目を担っているからこそ可能なのであり、現在の地球では、アトランティス神しかできないようになっている。
本物を見抜くには、心眼、つまり正しい霊感が備わっているか、そして浄霊を受けられるだけの徳を有しているかどうかにある。