日本人に根付いている形式や忍耐というのは、江戸時代の頃に刻み込まれたものである。お上の圧力に従わなければならなかった時代の名残でもある。このしきたりによって、意識が固まったままとなっている。特に宗教団体に入っているものに多い妙な安心感は、家族の幸せに程遠くなっている。現在行われている葬儀は、あくまで形式であり、それによって霊が成仏できないと考えている人は少ない。例えば、自殺者の霊が、お祈りだけで成仏すると考えている人は未だに多く、気持ちの問題だと考えているものもいる。家族にガンや自殺者がいるのは、家族の誰かが犠牲者になるのを暗示している。この地球では、自殺者を浄霊し成仏させられるのは、アトランティス神しか許されてはいない。しかし、霊感がなく垢まみれの一般のものは、そのことすら理解し得ないだろう。
形式好きな日本人の特徴は、自分の入っている宗教団体以外には耳を傾けようとはしない。経典が全ての世界と勘違いしたり、宗教家の言葉だけに左右されたりしてしまうのである。彼らが科学的や医学的な見解を理解しているのかと言えば、そうではない。その根拠は、という質問には答えることが出来ないのである。弘法大師や釈迦、キリストの話には絶えず宇宙観が背景にある。個人の宇宙観と、それが全てだと従う信者の間には大きなギャップがあり、まず、釈迦たちの本質を理解する人はいないだろう。それを継承する宗教団体も、現代人の意識とは繋がっていない。従って、形式で始まり形式で終わっている。だから、どの家庭も不幸が続くのである。その事が分かるのは、自分が死んで霊になった時から始まる。
一度でもこちらで供養をすると、その真実と形式の落差を味わうことが出来る。形式からの脱却が、本当の供養の第一歩となる。